日本理化学工業株式会社

見学場所である日本理化学工業に到着すると、既に大学スタッフが待っておられた。スタッフから今日の見学は別団体の十数名を合わせて、30名を超える見学者だと聞き、凄いなぁ~と思わず溜息。その別団体の方々はバスで乗り付けていた。
時間も迫り、社会起業大学のいつもの顔ぶれが揃い始め、日本理化学工業の看板の前で記念撮影などしていた。時間となり、正門から入り口に向かうと、黒板にチョークで挨拶が書かれたウェルカムボードが出現。女子の誰かが思わず「かわいい~」と叫んでいた。
中に入った雰囲気はなんだか昔の小学校と言った感じで、昭和30年代の創業以来50年の歳月が感じられた。2階に上がり、食堂のような会議室のような所に通され、会長のお越しを待つ。側面一杯の窓ガラスに、日本理化学工業の商品、ガラスに書けるチョークでしっかり落書き(?)された花や人や動物の絵に目が奪われる。こうしてみるとやっぱり小学校の教室を思い出す。

私は益々会長の話に興味津々となった。
先代から会社を引き継ぐ形で社長になった。当時、大学卒業間もない会長は、チョーク屋なんかになるつもりはなかったんですと、笑いながら語っておられた。

何度もお断りしたが、何度も来られる。そのうち根負けして、少しの期間ならと2名の方を研修生として受け入れた。彼らの仕事ぶりは本当に真面目で、休み時間で休もうと言っても、手を止める事無くじっと仕事に取り組んでいる。その真面目さは並大抵のことではなかったそうである。
そして研修も終わりの日、従業員たちが大山社長を取り囲み、「あの子たちをここで働かせてやってください。15歳のまだ年端もいかない子達が、毎日一生懸命に仕事をしてくれました。あの子たちが出来ないことがあったら私たちが面倒をみますから、どうかお願いします。」と懇願したと言うのである。社長も従業員の熱いハートに押される形で、この2人を本採用にしたそうである。昭和35年のことである。まだ、日本の障害者雇用がその緒にもついていない頃ではなかったか。正に先駆的だが、社員皆をそうしなくてはならない気持ちにさせたのも、知的障害を持ちながらも、真面目に一生懸命働いた2人の方の存在があったればこそである。
そのお2人の植えた種が、今や全従業員77名のうち、知的障害者が57名という大変な雇用率を生んでいる。
会長は続ける。決していい話ばかりではない。その後に入社してこられた障害者の方は、なかなか職場で落ち着いて作業が出来ない方もいた。かなり優しい仕事をしてもらっても、うろちょろしてしまう。
なんとか彼にもうまく仕事が出来るようにする方法はないものか。そんな集中力のない彼でも仕事に前向きに取り組める方法はないものか?

こうした工夫がラインの随所に見られる。チョークの長さの測定、何個処理したかを単語の暗記用のカードを使ったりと、会長曰く、彼らにやりやすいやり方を考案することが、生産性を高めることにつながると。1日の不良品による損失についても、1000本中50本が欠けや割れで駄目になりました。利益の何十%ですと言っても彼らにはピンとこない。そこで、1日の内損失が1万円以内なら少ない、1万円超えなら多いという基準で目標設定をしているそうである。彼らにも給料でもらっているお金で、1万円というお金の意味する物がどのくらい重いかはイメージできるというのである。


会長が彼らの幸せは企業が作ると仰る言葉の真実は、工場で働く従業員である障害者の方々が、私たち見学者に対して笑顔で発してくださった、「こんにちは!!」という屈託のない真っ直ぐな挨拶に、そのまま現れていたような気がする。私たち社会起業大学の見学者は、入り口に並べられている様々な商品を楽しそうに手に取り購入した。会長を囲んでの写真撮影の頃には心配された雨が降り始めた。冷たい雨であったが、日本理化学工業を後にする私たちの胸には、温かな彼らの表情がいつまでも残っていた――。
