企業訪問レポート

株式会社板室温泉大黒屋

私たちが栃木県の板室温泉大黒屋を訪れたのは、やや日差しが強い5月20日のことだった。那珂川の支流に囲まれているため、幅の狭い小さな橋が大黒屋の入り口だ。敷地は大変広大で左右にこじんまりとした和風の建物や積み上げられた薪を眺めながら奥へと進む。次第にゴーゴーという那珂川の音と正面の山に高くそびえたつ森に出迎えられた。それらを背景としてまるで絵画のように配置された桜やもみじなどの植物や岩石、東屋などが配置されている。まさに周囲の自然と一体化した庭園だ。その庭園の入り口付近には木で作られた小さな砦のような門がある。その門の説明を室井社長から伺った。「この門の手前から門を通して見える景色は客体である。そしてその門に一歩足を踏み入れるとあなたも主体としてその一部となるのです。」

社長の室井俊二さんは第十六代目の社長だ。大黒屋は今年創業460年だそうだ。460年も前からこのような山奥で湯治場旅館として存在しつづけていることに、まずは大変驚いた。この山奥の集落には他にも湯治場旅館がいくつか立ち並んでいる。なかでも大黒屋はリピーター率73%、死ぬまでにもう一度行きたい旅館として法政大学大学院の坂本光司教授の著書「ちっちゃいけど、世界一誇りにしたい会社」にも取り上げられた。現代アートを取り入れた経営、なぜアートなのか室井社長からお話を伺った。

室井社長は長男だったため、生まれた時から16代目として旅館を継ぐべく育てられた。自分の人生なのにどこか親の人生を歩かなければならない葛藤があったと思う。室井社長は実はサービス業が好きではなかった。なぜならば嫌いなタイプのお客様や傲慢なお客様に対してもペコペコ頭を下げるご両親の姿を見てきたからだ。お客様は神様だといってこんなことを続けていては自分のアイデンティティーがなくなると思った。しかしながら旅館業を廃業するわけにはいかないので、こちらからお客様を選ぶことはできないかという突飛なことを考えた。仕事が楽しくなかった室井社長は、アーティストは貧乏だけど楽しんで仕事をしているという言葉を聞いて銀座の画廊通いをはじめ、次第にアートについて理解できるようになった。そして旅館に現代アートを取り入れれば、その空気感に惹かれたお客様だけが訪れるようになるのではと考えた。

作品を次々購入し現代アートの宿となったある日、ヤクザの親分がお客としてやってきて、室井社長を呼びつけ、「わけのわからないものを飾るな」と大声で怒鳴り始めたそうだ。とりあえずお部屋に戻っていただき、「ギャラリーに飾ってある作品は、浴衣やネクタイの柄と同じ旅館の柄なのです」と説明したところ、「そうか、わかった」と理解はしたものの、帰りがけに「俺には合わないからもう来ない」と言っていったそうだ。その親分は刺青を入れていて、室井社長曰く「刺青の柄は人を脅かそうとするもの、アートは人を心直させるもの。だからアートに共感してくださるお客様が増えた」そうだ。このように現代アートを取り入れたおかげで客層がかわり、ゆっくりとアートを眺めながら日頃の疲れを癒したいというリピーターが後を絶たない。

今では入り口に「保養とアートの宿」でございます、対象となるお客様は健康を目的にされる方、「文化」「知」「美」に興味のある方と掲げられている。この対象となるお客様に満足してもらう為に、団体客は取らない、カラオケやゲームコーナー、宴会場などもない。あるのは小さな図書コーナーとアーティストの方たちの作品コーナーだ。

更に興味深いのはお客様に迎合しない。過剰なサービスをするのではなく、「地味」でありたい。「地(ち)」の「味(あじ)」で現代アートと豊かな自然を味わってもらうために、韓国の黄土を敷き詰めた壁からのマイナスイオン、遠赤外線効果で館内はとても気持ちが落ち着く空間だ。

またアートは「地味」から「自美」への架け橋であると室井社長はいう。アートに囲まれていると次第に美意識が生まれる。「美」とは与えられるものではない、自らとの対話の中で次第に育まれていくものだそうだ。確かに、豊かな自然の景色、那珂川の流れる音、室内外に置かれているアート作品に囲まれていると、自然に気持ちが落ち着き立ち居振る舞いにも気を使ってしまう。そんな自分がとっても心地よかった。庭園にある主体と客体を分ける木の砦は、まさに客体の中に足を踏み入れたら主体と一体化する。美しいものに囲まれたら、その中の一部である自分に美意識が生まれる。

私は最後に室井社長に質問させていただいた。「アートのことは全くわからないので、出来たら宿に着いたら最初に説明をしてほしい。そうすればもっと楽しめるような気がする」。室井社長の答えは「まず最初に作品を見て感じてください。感性で感じてそれから質問して理性で理解してください」ということだった。確かに理屈より大切なのは感性で、その作品から放たれるエネルギーから自分は何を感じるのかということに、意識を傾けることが感性を養うことなのだ。

なぜこんな山奥の集落にある旅館がリピート率70%以上、460年も支持されているのか、私の答えは美意識と感性を養う宿という革新性であり独自性にあると思う。都会で日々の生活や仕事に追われ疲弊してしまった体と心を元気にしてくれるのは、この美意識と感性を刺激する自然とアートだと思う。